2019年12月25日水曜日

僕のクリスマスの思い出。

僕中学生の頃、父と母が兎に角仲が悪いのを通り越して、常に冷ややかな関係でありました。何時も父が帰って来る時の玄関のドアのカギのガチャっという音を聞いては、家族全員 心臓がドキッと緊張したものです。父は帰ってきても特に口を利くでもなく、眉間にシワよせ黙々とタバコを吸っている、そのくせ「空気が悪い、換気や 」と真冬でも全ての戸をあけっぱなしにしたりする。 一方 母は兎に角家事が嫌いな人でしたので、家は常に散らかっていた。そんな家でしたから、僕の記憶する限り、家族と仲良く夕食を共にした事は一夜たりともありませんでした。何時も無言で静かに緊張しながらの食事でした。 そんなあるクリスマスの夜、兄が何を思ったか張り切って、クリスマスケーキとシャンパンなぞを買ってきた。勿論木村家でシャンパンを抜いた事など一度も無いし、クリスマスケーキを家族で囲んだ事もその時が多分初めてだったと思う。勿論その時は父はまだ帰宅していなかった。 普段そんな華やかな雰囲気を全く味わった事無いものだから、クリスマスケーキを前に母もなんかウキウキした表情をしていたし、僕も照れ臭いようなしかし恥ずかしい中にもほのかな幸福感を噛み締めていました。 「じゃー 僕シャンパン抜いてみるわ!」と兄がやった事の無いシャンパンの栓を不器用にも開けようとしたその瞬間、突如その栓は蛍光灯にヒット、パリンと言う音と共に、割れた蛍光灯の破片が細かい雪の如く無情にもそのクリスマスケーキの上全面に降り注いできた。 暫く誰も何も言わなかった沈黙の後、「僕何やってもこんな感じか、、」と兄はうっすら笑ってそのまま自分の部屋に入っていった。 そのクリスマスケーキを一口も味わう事なく片付けている時、魂が身体から抜けた様な脱力感と共に、救いようの無い何かを感じました。

2019年12月12日木曜日

謝る について。

近頃、コンプライアンスの強化に伴い、所謂お偉方の謝罪会見を目にする機会が多い。 白髪頭の壮年期の大人が深々とお辞儀をする。それを見るたびに、僕は何か欺瞞というか違和感を常にかんじる。なんでそんなに深々と頭を下げる必要があるのか、と思う内容が多い。 日本では小さい頃から「素直に謝りなさい、謝れる人間になりなさい」などと教育されてきた。一種のコミュニケーションツールとしての 謝る そのものは度々軽々しくむしろ便利に使われる。そんな土壌にあっては、〝謝る〟事の出来ない人間は日本では住みにくいに違いない。 しかし僕は逆に、簡単に謝る人をあまり信用出来ない。何故かと言うと、そもそも謝るという行為は、自分の信じている何かを自ら覆す行為でもあるからです。それは恥ずかしい思いをすると同時に公然と自己否定を表明する事となるからです。 考え過ぎなのかもしれませんが、僕はそれくらい 謝る と言う行為には僕には覚悟のいる事です。 先に述べた様に日本では謝る をコミュニケーションツールの一つの様に軽く使う場合も多々あり、所謂 excuse me! のノリで簡単に謝る。しかしこれは多くの場合 欺瞞であると僕は思う。 謝るという行為は、ある意味相当な覚悟を持っての行為でもあり、またそう言う態度こそ他者に対する敬意につながっているのでは無いだろうか。

2019年11月21日木曜日

心の拠り所、について。

先進国では精神的に病んでしまった場合、一般的に西洋医学に頼るしか術が無い、つまり精神科なり心療内科で治療を受ける場合が多い。 西洋医学の薬は、例えば風邪薬だと症状を緩和させているのみで、ウイルスは自分の免疫力によって回復に向かわせる。 これは精神科などで行われている治療にもあてはまる。つまり精神科で処方される精神薬は何か心の病に対しその苦しみを緩和させている(つまりごまかしている)に過ぎず、根本的な病みのCoreは存在し続ける。先に述べた風邪だとウイルスに対し最終的には自身の免疫力で回復する。では、精神病の場合そのウイルスに相当する心の病を根本的に治してくれるものは?? 物理的に存在しているウイルスに対し、存在が見えない精神的病は、ウイルスをたたいて治す的な治療が不可能。それははまるで幽霊と戦っているようなものです。 ではその病を回復に向かわせるのは何か?と言うと、僕の経験からすると、心の拠り所、つまり病の濁流に流されない〝しっかりとしたつかまるための太い樹〟これにつかまっていたら大丈夫、と言う〝つかまるもの〟が必要でした。 ところで、現代人は数値化できないものを日に日に信じなくなっている。全ては数字で評価し、数字のデカイものが勝利者で少ない者は敗者にならざるを得ないと言うのが現実と言っても過言ではない。 一方で、皮肉にも数値化できない〝精神的な闇〟は深刻さを増す一方です。実際に僕の周りにもその波は10年前と比べても圧倒的に深刻化しています。 その物理的に存在しない問題に対しではどの様に乗り越えて行くのか? その問題に対し昔から宗教や哲学があるし、みなそこに答えを求めようとしてきた。 最近インド人の若者と話しをした時の大変印象的な話しを聞いた。彼の話しによると、最近のインド人の若者は、彼らの大半が信じているヒンドゥー教を確かに信じてはいるが、かと言って親世代のそれとは違う。確実にもっと現実的な物を信じるようになってきているらしい。 特にビックリはしなかったものの、やっぱりか、、と思った。 先程も述べ様に現代人はどんどん数字を信じる様になってきている。しかし現代が抱えている問題はむしろ数字で解決出来ない、〝物理的に存在しない存在〟つまり心の混乱は益々盛隆する事となるだろう。 益々存在が希薄になる宗教なり哲学、まして宗教に対し希薄にならざるを得なかった日本人は、精神的混乱をそれらに救いを求める事は難しいと思う。 だったらせめて、おりおり、自分にとって最も身近な〝存在しない存在〟であるご先祖に手を合わせ思いを馳せる時間が一日のうちほんの数秒あるだけでも何か心の拠り所を、濁流に流されない〝もつところ〟を感じるのではないかと思う。

2019年11月8日金曜日

ジャジャジャジャーーーン

経験から言える事ですが、編曲と言うジャンルは、要はどれだけ勉強したか、もっとわかりやすく言うと、どれだけのデータ量を持っているかが勝負だと思う。(もっともそれをどれだけセンスよく扱うかと言う問題はありますが)よって編曲家と名乗っている人に専門知識の無い人は世の中に存在しない。 では作曲はと言うと、これは、特にモチーフ(冒頭の素材、例で言うと、ベートーベン交響曲第五番の運命のジャジャジャジャーーーン)はその人のある種独特の、クレージーな、どうしようもないkarmaがそこに投影される。つまり作曲と言う行為は、その人そのものと言う事になる。モチーフは取り繕う事が不可能が故、その人そのものが音に入魂される。 勿論作曲もおおいに専門知識を必要としますが、しかし肝はやはり最初の ジャジャジャジャーーーンです。 そう考えると、編曲と言う作業はデータ量が勝負だと仮定すると、AIでも出来る事となる。これはオーケストレーションにも言える。例えば、これはワーグナー風、これはジョンウイリアムス風、これは武満風、の様に。 そう考えると、これからの作曲の生業とは、どれだけ勉強するか、もしくはどれだけクレージーになれるかにかかっているのではないかなどと考えてます。 僕はやはりジャジャジャジャーーーンに人生を賭けたい。

2019年10月31日木曜日

人を見て、この人は良い性格だとか、逆に悪い人だとか言うのは、僕にはあまりよくわからない。そもそも人間は皆良い人であり悪い人と思う。 それよりも 、この人が、何かにつけ覚悟が決まっている人とそうでない人、これは白黒のごとくよく分かる。 これは年齢とは無縁で、若い人でもそう言う人はいるもので、その人の目は鋭い刃物の様に静かで、そして殺気だっている。

2019年10月16日水曜日

音楽と言う言葉について。

音楽と言う言葉は 音を楽しむ事、とよく訳されますが、、とんでもない間違いで、本当は血の滲むような努力をした上で、一瞬その様に思う瞬間があるかないか、と言うのが真実。

楽しいと言うより、苦しいけれど好きだからしょうがない、からやる、と言う様なものです。

死ぬほど鍛錬した上に一瞬の喜びがある、それが音楽で、決してイージーな物では無い事は専門家なら誰だって知っている。

そもそも音楽の、楽、って言う文字はとても違和感があるし、世間的にもその 楽、と言う一文字で、相当勘違いされてるのでは?と思います。
今朝、ドトールコーヒー庄内店でいつものモーニングセットAを注文し、いつもの席に座って朝食をとっていた。今日は朝早い事もあり店内はガランとしている、とその時、ジャージ姿のおばちゃんが真隣に座り話しかけきた。

おばちゃん:「お水どうぞ」(ドトールは水はセルフ)

僕:  ありがとう、、、!?

おばちゃん:  兄さん今日は仕事?なんかえーとか書いてるん?

僕 : ちょっと違うけどまあそんなとこやなー

おばちゃん : ここようきますん?

僕 : ようきますよ!ここのコーヒーうまいしね。

おばちゃん  : そうなんよ、、私もなー、コーヒーも好きやけど、、男性もすきなんよーーー!!アッハッハッハッハー!



と言う事で朝から庄内のおばちゃんにナンパされました。その後30分くらいおばちゃんの半生を聞きました。ご主人を交通事故でなくされ、女手一つで4人の娘さんを育てらしく、いまは皆家を出てちょっと寂しいらしい。

おばちゃん  : ところでお酒のみはんの?

僕 :  飲みますよ。

おばちゃん:   ほな今度連れってーな!ハイヒール履いてくるさかいに!

僕  :  エエな!(汗)

おばちゃん  : ほな電話番号おせーてーな!

僕  :  大爆笑 の後  また今度にしょう、、、


おばちゃんの歯の抜け切った笑った顔はなかなか可愛いらしかった。とさ。

恐るべし、庄内のおばちゃん。

2019年9月16日月曜日

一か月ほど前、NHKの教育ラジオで、中国の易経、帝王学についての放送があった。
兎に角、車に乗りながらも引き込まれた内容でしたのでほぼ覚えいるのですが、その内容はといいますと、、

中国のある所に龍が住んでいます。龍の仕事とはもっぱら、雨を降らせること。つまり日照りが続いた日が続くと、人間は龍に雨乞いをするわけです。優秀な龍は、雨乞いを感じたと同時に雨を降らせる事が出来、そういった龍は、人々から尊敬と畏敬の念を抱かれてる。

ある龍は、雨乞いを感じながらもなかなか雨を降らせる事が出来なかった。その時龍は 俺はダメな龍だと落胆する。

しかしある時から、雨乞いのサインを感じると思い通りに雨を降らせる事が出来る様になってきた。最初は龍も偶然だと思っていましたが、あまりにも何度も雨を降らせる事ができ、人々からも尊敬され出すと、俺はひょっとして天才?などと思いだします。

この状態が所謂、易経で言うところの、陽、の状態になる訳です。人間、陽の状態になるとその人の実力如何に関わらず何をやってもうまく行くそうです。

そうなった龍の事を飛竜と言うそうなんですが、
飛竜になるとどうなるかと言うと、もっともっと凄い龍になろうと思い、もっと高い所まで登ろうとします。

そして辿り着いた場所はと言うと、そこは周りに雲もない高さまで登り詰めます。

正にその時、人々が雨乞いをすると、、飛竜は周りに肝心の雲が無い為に雨を降らせる事が出来ません。

と言うお話。


ではどの様にしたらまたもとの、皆から有難いと思える、飛竜になれるのか?ですが、

その帝王学によると、今まで、陽 が強すぎた飛竜は、その反対の、陰 を取り込む事により、また元の雲がある良い高さに降下する事が出来ると言うわけです。

では、陰 を自分の中に取り込むとは、具体的にどう言う事かと言うと、例えば、今正に 勝ち負け、どちらも自分の意思で選ぶ事が出来る状態の時、あえて負けを選択する事なのだそうです。

具体例ですと、めちゃくちゃ疲れて電車に乗って、やっと座れたと思っている時、前にお年寄りが立ったとします。当然、俺は今日は疲れていてやっと座れんだ、今日は座らせて欲しい、しかし、敢えてその座席をお年寄りに譲る事、これが いわゆる 陰 となるらしいです。つまりは自分の持っている、時間なり、財産なり、利権なり、才能なりを人に差し出す。これが陰となり、飛竜はまた元の雨を降らせる高さに戻り、皆から有難いと思われる 飛竜となると言うお話です。

負けるが勝ち、なんて言う言葉を聞いた事ありますが、案外そうなのかもしれませんね。

僕が今後欲しい物があるとすれば、オープンマインドです。何時も気づけば自分の殻に身を隠そうとする。ちょうど亀や丸虫の様に。
要するに人に対してちょっと臆病なところがある。
オープンマインドが欲しいと言うモチーフ、理由は、今観ている同じ景色を、違う角度つまりオープンマインドな自身の角度から見ていたい。きっと美しい物はより美しく、醜いものはより醜く映るのであろうと思う。

一回しか無い一生、あと何十年生きるか分からないけど、大体サイズは感じられる今、欲しい物と言えばそれがまず頭に浮かぶ。

今となっては、他に欲しい物は、と言えば、、物は勿論、名誉、名声もいらない。お金はいるだけは欲しいが特に興味はない。特に名声、名誉、物の値打ちは近年どんどんと下がって行く一方。何故ならば、その様な物は死んでしまえば、意味も価値も色褪せやがては無くなる、という事くらいはこの歳になると様々な経験から予想がつく。

そう考えると大事なのはあと残された時間をどう生きるか?ですが、今欲があるとすれば、それは世界の色々な文化に触れ、それらの価値観や生活に触れてみたいと言う事。
今一番行きたいのは中東のイスラム圏の国。
今の日本は、同じアジアでも文化的宗教的に随分と遠い様にも思う。(よく僕はイランの映画をみますが、どの映画も日本人に比べて純粋に生きている、凄く細やかな繊細な感情が写しだされている物が多い。)

世界の色々な文化をオープンマインドな精神で観てみたい。そこにはキラキラとした子供の頃に観た様な感動があるかもしれない。

トルストイの、〝光の中あるうち光の中を歩め〟
内容はキリスト滅後100年という時代を背景に、主人公ユリウスは常に人生に心の揺れを感じつつ彷徨い、常に疑いと闘いつつ、やがてキリスト教に帰依する事となる、と、大雑把ですがそう言う物語です。

トルストイが晩年に信仰と言う大テーマをある意味直球で挑んだ作品だけに、大変重みのある作品だと思います。

物語の主題からは少しずれた観点ではありますが、今回この物語を読んで大変驚かされたのが、この原始キリスト教の戒律と、原始仏教の戒律が共通している部分が多い、と言う事です。違いはと言うと、キリスト教は、隣人、敵を愛せよ、で、原始仏教は、戒律を守りひたすら修行せよ、またキリスト教は一神教、原始仏教は神と言う物自体は存在を認めていますが、それ自体は大した問題ではなく、兎に角ひたすら戒律を守り実行する事に重きを置いています。

いづれにしても、生きる事自体大変困難な人生をいかにして生き抜くか?について箴言していますが、双方平たく言うと、嘘をつくな、とか、人を騙すな、とか、汚い言葉を使うな、とか、人を殺めるな、とか、異性と淫らな関係を持つな、とか、上から目線はそもそも間違いである、自分が上だとも下だとも思うな、だとかそんな感じです。

原始キリスト教にしても、原始仏教にしても、教義は非常にシンプルで、誰にでも理解できる内容である事も酷似しています。

仏教なんかでは、後代の物、特に大乗仏教などは、非常難解でまた解釈も様々で当然全て網羅する事など、学者専門家でもあるまいし、到底無理ですし、そもそも現代人の宗教離れもそこに原因があるとも思います。

しかし下に挙げている、スッタニパータ、などはこれまた仏滅後二三百年後に編纂された最古の仏典ですが、内容は非常にシンプルで皮肉にも分かりやすい。多分仏陀もこの様にシンプルに弟子たちに教えて諭したのだと思います。

因みに、このスッタニパータ(岩波文庫)は仏教学者で東大教授の中村元さんが研究をした、ある意味学問としての原始仏教、と捉えて読んでみるのも趣があるともおもいます。

僕の様な常に心が揺れ動く人には、何か心の拠り所と言う物が必ず必要で、そう言った人にはこの様な箴言書(僕は敢えて聖書、仏典などと重みを持たせるのではなく、箴言書くらいの気軽さで読んでいます)は大変有難く思います。

キリスト教にしても、仏教にしても、他の宗教にしても、共通している想いは、人々の平和と自然との調和、と言う事なのではないでしょうか。

2019年4月2日火曜日

白か黒か。

僕が生まれた家はいわゆるボットン便所で、どんなに家の中を清潔にしているご家庭でもなんとなくうっすら臭い匂いがしていたものです。今ではあまり考えられないかもしれませんが、完全にその匂いを消してしまうことが不可能だった訳です。

しかし昨今では、下水道の完備によりその匂いも消え、また消臭剤や除菌剤など臭いものを徹底的に排除する傾向になってきました。特に日本ではそれが顕著で、お互い匂いに関して最大限にきをつける人が多くなった。

ここで仮に臭いという事を 黒色とし無臭を白色だとすると、今の時代は限りなく白色を徹底的に追求する世の中となって来たと思います。僕が生まれた時のようにうっすらと匂っているなぞ今の時代の人には許しがたいことではないでしょうか。

しかし、匂いに限らず、昔は白黒の中間の色であるいわゆるグレーゾーンみたいな物がどの分野にも存在した。例えば飲酒運転にもグレーゾーンがあったし、赤線(合法の遊郭)ヒロポンなどがあり、街には必ずヤクザは多く存在したし、政治の世界では今では考えられないほど堂々と贈収賄が行われていた。官僚は天下りが慣例化していた。

このように日本でも何十年かまえまでは数多の限りなく黒に近いグレーゾーンが存在していた。しかし時代の移り変わりと極端な事件事故により、どんどん法律により規制していくこととなった。

善ということを盾にどんどん世論はグレーゾーンを排除してきたわけですが、その結果として人々はヒステリックにまで白色(善)至上主義となり、黒色(悪)を徹底的に叩き潰すといった攻撃性を僕はとても危惧しています。いわゆる善の傘を被っている者は徹底的に悪を排除しても良いということに。

くさいものには蓋をしろ、という諺がありますが、今の時代、臭い物は排除せよ!という感じがします。

僕は思いますが、では人は徹底的に白色な人間なんているでしょうか?と問いたい。何をするにつけ完全な白色なんて存在しない。例えば99%除菌のうがい薬で口をゆすいだところで何百万という菌は残るのと同じように、あらゆるもの事は全てグレーゾーンに覆い包まれているのは否定しようがないと思う。

その様なグレーな存在である人間であるにもかかわらず、その様な真っ白色を目指し続けて大丈夫か?と思う訳です。
既に現在の日本では、お互いがお互いを厳しくチェックしあい、もし黒色を発見しようものなら、善という盾を武器に徹底的に悪叩き潰しても良いというヒステリックさを感じます。

わかりやすい例で言うと、先日捕まったピエール瀧氏に対する世の反応はそれらを物語っています。

今の日本は、若い人の自殺率が世界一という記事を見ました。

そういった悲しい出来事と、先に述べた白黒の話は、関係のないこととは僕には到底思えません。


幸せ度ランキングでは日本は58位で先進国ではダントツの底順位。元号が令和と変わりましたが、世の中が良くなってゆく様には到底僕には思えません。