2018年12月8日土曜日

音楽を人に伝える。

例えばがくにフォルテと書かれてあると、音を強く、クレッシェンドだと段々と強く、ですが、こと音楽の現場、例えば作曲をした物を奏者に伝える時、そこはフォルテで!なんて言ってもそれは音量の数値が上がるだけで、その説明では少々お粗末の様な気がします。

先日テレビで、佐渡裕さんが念願のベルリンフィルで指揮をする、そのリハーサル風景が写っていた。佐渡さんは、はじめに音楽や表情を表面的に整えようと、それこそ楽譜書かれている情報の確認をしている様に映った。

案の定楽団のメンバーは好評化ながら、「これでは、楽譜の確認でリハーサルが終わってしまう」と言う人もいた。
勿論佐渡さんもそれをよくわかっておられ、次の日のリハーサルでは、音楽的な説明に対し、例えばですが。そこは、「突然暗い森の中に迷い込んだ様な不安な感じで!」みたいな表現をした時に、楽団の彼を見る表情がガラッと変わった。彼の感じている音楽をみんなで体験しよう!と言う様な雰囲気になった。

思うに、作曲家や、音楽の先生、指揮者などと言う人は楽譜に書かれている情報をいかに文学的に表現できるか、が非常に大事であるのではないか、と思います。

そこのピアニッシモを「降り積もった雪の上にそろっと足を踏み入れるように!」と言うと、しっかりとイメージが伝わると同時に、奏者のモチベーションも格段に上がるとおもいます。


正に一石二鳥。

2018年10月14日日曜日

お知らせ

こんにちは、木村知之です。私ごとですが、bass奏者としての演奏活動をこの10月を最後に完全に辞める事にしました。
理由は昨今、作曲と演奏活動の両立が非常に難しく、学生時代の目標であった作曲家としての活動及び研究にできる限り時間を費やしたいと思いました。

また、52歳となり、表現したい何かを出しきれず、時計が突然止まってしまうかもしれないと言う恐怖感も年々強くなってきました。

これから残りの一生を、作曲、研究に邁進し、広くは音楽を通して社会貢献できる様、勇気を持って生きて参りたいと思います。

今まで、僕を使って下さった多くのミュージシャン、共演者、ご支援下さった全ての方々に深く感謝をしております。

長い間本当にありがとうございました。今後ともどうぞ宜しくお願い致します。

木村知之




2018年2月13日火曜日

怒りについて。

怒りと言う感情のほとんどは自身の価値基準との誤差から生じると思う。

例えば、あいつは挨拶をロクに出来ない奴だ、だからダメだ。となった場合、怒り主は挨拶をするのは当たり前 当然だ!常識だと言う定義を武器に怒る。

しかしその価値基準は全ての人に当てはまるとは限らない。逆に、なんで挨拶しなけりゃならないの?と心から疑問に思う人には、なんでその人が怒っているのかが真に理解出来ないと言う事になる。そいなった場合お互いに不幸な事になる。なぜならば、挨拶の部分さえクリアできればその人と親友になれるぐらいの関係性があるかもしれないのに。

これは極端な例としても、もっと些細な事で言うと、お茶碗は向かって左側、となった場合、じゃ左側キキの人は?となる。

左側キキの人にとっては違和感のあるお茶碗の場所。しかし向かって右側にお茶碗を置いた場合、それは違うと言って怒る人もひょっとしているかもしれない。

思うに、色々な価値基準があるんだな~とちょっと思うだけで、その怒りは半減されるのではないか、と思う。

怒りは、自然な事だと思う。しかしひょっとしたらその人の価値基準の相違なのであって、それは怒るに値する価値があるのかしら?と思う事が、ままよく見かける。

ほとんどの怒りは、価値基準の相違がほとんどではないかと思う。

そうお互いが思うだけでも随分と自身の周りに平和が訪れるのではないかと思う。