2020年12月13日日曜日

手放しで喜ばなくなったもう一つの理由。

手放しで喜ばなくなったもう一つの理由は、 仮に何かがたまたま上手く好転して、自分は幸せだと思ったとしても、自分の友人や知り合いの人、またそのご家族が絶望の淵に立たされて、生きる事に疲れてしまっている人がいる事を考えると、その幸せだと思う気持ちは利己的な幸せであって、真の幸福とは言えない。 僕の周りにも絶望の淵に立たされて、生きる事に疲れている人がいる事を忘れて、一人で、自分は幸せだと思う事自体、単に鈍感な人間、と言えるのでは無いか。今も僕の周りに人生に絶望している人が事実いる。 僕が絶望していた40代の頃思ったのは、 世の中には二種類の人間が存在する、つまり明るく幸せそうな人々と、 絶望した自分。 自分以外の人は幸せなんだろうな、と思い孤独感の暗闇に立っていた。 人々の幸せそうな姿は、より自分の孤独感を増大させた様に思う。 そんな経験から、手放しに喜ぶ事が出来なくなったんだと思う。
40代の頃、精神的にきつい時代を長く過ごしましたが、それ以来何か手放しで喜んだりする事が無くなった。何故かは分からないけれど、多分世の中の全ての事が実は不十分で不確か、どんなに素晴らしい物でも人でも、必ずウィークポイントがあって実は道半ば、という事が分かったのかも知れない。例えばノーベル賞を取った人でも、やはり道半ばで有ると思う。そもそも完璧な物や人など存在せず、全ての事はひょっとすると取るに足らないささやかな存在なんだろうと思う。 話は変わりますが、以前、僕は音楽の才能がある、と本気で思っていました。大した努力もせずに。今は僕の才能など大した事は無いと思うし、努力にしても人並みにしかしていない。才能が大した事がないのであれば、せめて人並みの倍は勉強しないと、と思っています。音楽の知識ですら知らない事だらけで、自分の知識力を考えるといつも冷や汗が出そうになります。とにかく努力、勉強で足らぬ所をカバーしないと、情け無いダメな音楽家になる。 どこまで行ったって道半ばで有ると考えると、何か手放しに喜ぶなんて事は多分一生無いんだろう、とコーヒーを飲みながら、今ふと気が付きました。