2019年9月16日月曜日

一か月ほど前、NHKの教育ラジオで、中国の易経、帝王学についての放送があった。
兎に角、車に乗りながらも引き込まれた内容でしたのでほぼ覚えいるのですが、その内容はといいますと、、

中国のある所に龍が住んでいます。龍の仕事とはもっぱら、雨を降らせること。つまり日照りが続いた日が続くと、人間は龍に雨乞いをするわけです。優秀な龍は、雨乞いを感じたと同時に雨を降らせる事が出来、そういった龍は、人々から尊敬と畏敬の念を抱かれてる。

ある龍は、雨乞いを感じながらもなかなか雨を降らせる事が出来なかった。その時龍は 俺はダメな龍だと落胆する。

しかしある時から、雨乞いのサインを感じると思い通りに雨を降らせる事が出来る様になってきた。最初は龍も偶然だと思っていましたが、あまりにも何度も雨を降らせる事ができ、人々からも尊敬され出すと、俺はひょっとして天才?などと思いだします。

この状態が所謂、易経で言うところの、陽、の状態になる訳です。人間、陽の状態になるとその人の実力如何に関わらず何をやってもうまく行くそうです。

そうなった龍の事を飛竜と言うそうなんですが、
飛竜になるとどうなるかと言うと、もっともっと凄い龍になろうと思い、もっと高い所まで登ろうとします。

そして辿り着いた場所はと言うと、そこは周りに雲もない高さまで登り詰めます。

正にその時、人々が雨乞いをすると、、飛竜は周りに肝心の雲が無い為に雨を降らせる事が出来ません。

と言うお話。


ではどの様にしたらまたもとの、皆から有難いと思える、飛竜になれるのか?ですが、

その帝王学によると、今まで、陽 が強すぎた飛竜は、その反対の、陰 を取り込む事により、また元の雲がある良い高さに降下する事が出来ると言うわけです。

では、陰 を自分の中に取り込むとは、具体的にどう言う事かと言うと、例えば、今正に 勝ち負け、どちらも自分の意思で選ぶ事が出来る状態の時、あえて負けを選択する事なのだそうです。

具体例ですと、めちゃくちゃ疲れて電車に乗って、やっと座れたと思っている時、前にお年寄りが立ったとします。当然、俺は今日は疲れていてやっと座れんだ、今日は座らせて欲しい、しかし、敢えてその座席をお年寄りに譲る事、これが いわゆる 陰 となるらしいです。つまりは自分の持っている、時間なり、財産なり、利権なり、才能なりを人に差し出す。これが陰となり、飛竜はまた元の雨を降らせる高さに戻り、皆から有難いと思われる 飛竜となると言うお話です。

負けるが勝ち、なんて言う言葉を聞いた事ありますが、案外そうなのかもしれませんね。

僕が今後欲しい物があるとすれば、オープンマインドです。何時も気づけば自分の殻に身を隠そうとする。ちょうど亀や丸虫の様に。
要するに人に対してちょっと臆病なところがある。
オープンマインドが欲しいと言うモチーフ、理由は、今観ている同じ景色を、違う角度つまりオープンマインドな自身の角度から見ていたい。きっと美しい物はより美しく、醜いものはより醜く映るのであろうと思う。

一回しか無い一生、あと何十年生きるか分からないけど、大体サイズは感じられる今、欲しい物と言えばそれがまず頭に浮かぶ。

今となっては、他に欲しい物は、と言えば、、物は勿論、名誉、名声もいらない。お金はいるだけは欲しいが特に興味はない。特に名声、名誉、物の値打ちは近年どんどんと下がって行く一方。何故ならば、その様な物は死んでしまえば、意味も価値も色褪せやがては無くなる、という事くらいはこの歳になると様々な経験から予想がつく。

そう考えると大事なのはあと残された時間をどう生きるか?ですが、今欲があるとすれば、それは世界の色々な文化に触れ、それらの価値観や生活に触れてみたいと言う事。
今一番行きたいのは中東のイスラム圏の国。
今の日本は、同じアジアでも文化的宗教的に随分と遠い様にも思う。(よく僕はイランの映画をみますが、どの映画も日本人に比べて純粋に生きている、凄く細やかな繊細な感情が写しだされている物が多い。)

世界の色々な文化をオープンマインドな精神で観てみたい。そこにはキラキラとした子供の頃に観た様な感動があるかもしれない。

トルストイの、〝光の中あるうち光の中を歩め〟
内容はキリスト滅後100年という時代を背景に、主人公ユリウスは常に人生に心の揺れを感じつつ彷徨い、常に疑いと闘いつつ、やがてキリスト教に帰依する事となる、と、大雑把ですがそう言う物語です。

トルストイが晩年に信仰と言う大テーマをある意味直球で挑んだ作品だけに、大変重みのある作品だと思います。

物語の主題からは少しずれた観点ではありますが、今回この物語を読んで大変驚かされたのが、この原始キリスト教の戒律と、原始仏教の戒律が共通している部分が多い、と言う事です。違いはと言うと、キリスト教は、隣人、敵を愛せよ、で、原始仏教は、戒律を守りひたすら修行せよ、またキリスト教は一神教、原始仏教は神と言う物自体は存在を認めていますが、それ自体は大した問題ではなく、兎に角ひたすら戒律を守り実行する事に重きを置いています。

いづれにしても、生きる事自体大変困難な人生をいかにして生き抜くか?について箴言していますが、双方平たく言うと、嘘をつくな、とか、人を騙すな、とか、汚い言葉を使うな、とか、人を殺めるな、とか、異性と淫らな関係を持つな、とか、上から目線はそもそも間違いである、自分が上だとも下だとも思うな、だとかそんな感じです。

原始キリスト教にしても、原始仏教にしても、教義は非常にシンプルで、誰にでも理解できる内容である事も酷似しています。

仏教なんかでは、後代の物、特に大乗仏教などは、非常難解でまた解釈も様々で当然全て網羅する事など、学者専門家でもあるまいし、到底無理ですし、そもそも現代人の宗教離れもそこに原因があるとも思います。

しかし下に挙げている、スッタニパータ、などはこれまた仏滅後二三百年後に編纂された最古の仏典ですが、内容は非常にシンプルで皮肉にも分かりやすい。多分仏陀もこの様にシンプルに弟子たちに教えて諭したのだと思います。

因みに、このスッタニパータ(岩波文庫)は仏教学者で東大教授の中村元さんが研究をした、ある意味学問としての原始仏教、と捉えて読んでみるのも趣があるともおもいます。

僕の様な常に心が揺れ動く人には、何か心の拠り所と言う物が必ず必要で、そう言った人にはこの様な箴言書(僕は敢えて聖書、仏典などと重みを持たせるのではなく、箴言書くらいの気軽さで読んでいます)は大変有難く思います。

キリスト教にしても、仏教にしても、他の宗教にしても、共通している想いは、人々の平和と自然との調和、と言う事なのではないでしょうか。