2016年4月15日金曜日

ドストエフスキーに思うこと。


インフルエンザで4日ほど寝込む機会があり、寝る以外に本を読む事位しか出来無いので、以前買ってストックしてあった ドストエフスキーの白痴 を手にとった。そして長文になってしまった。僕は今まで、カラマーゾフの兄弟、罪と罰、を読んだことがある。僕はこの人の作品には何時ものめり込んでしまう。ドストエフスキーのこの3作品の根底に流れる共通のテーマは、第一に 死、第二に神の存在、第三に 生きるということの難しさ、そして自ら持っていた癲癇、では無いかと思う。またこの4つのテーマはお互い緻密に繋がり絡み合っている。特に 死、については、第1級のテーマとして各作品に反映されている。例えば、今読んでいる白痴も、ある人物がギロチンにかけられる4時間前からの心理描写を克明にかかれていたりするけれど、当の本人ドストエフスキーは、実際政治犯で死刑宣告を受け、執行直前に恩赦により減刑される、という体験の持ち主だけに、その心理描写は想像しただけではたどり着くことの出来ない、生々しい描写となっている。人間は死刑執行直前になにを思うか、あと5分後には魂と身体が、ばらばらになってしまうのだと思いながらも、この5分が永遠であるかの様な異常な集中力を高める、2分で友達や家族との別れに使い、2分を自分の事を考えるのに使い、残り1分をあるがままの風景を眺めるのに使う、といった具合に、しかし当人は何もかも承知しているにも関わらず、ふと生への執着、一抹の希望を持った瞬間に、物凄い恐怖感が襲ってきた。とあります。
カラマーゾフの兄弟には、神の存在と死についての印象的なシーンをおもいだします。
三男アレクセイ(修道僧)は、師匠ゾシマの死について、聖人であるゾシマは死んだのち、肉体がずっとそのまま腐ることないと、強く信じていた。にも関わらず、死後数日たってその肉体から異臭が漂ってきたことに、神への絶対的信頼を失う。
いづれも物語のワンシーンですが、三つの物語の色調は大変よく似ていて、三つとも同じ物語のように繋がっているようにもおもいます。

僕はこの様な壮絶な体験こそありませんが、40台前半から後半にかけて、永きにわたり精神的にかなりおいつめられた時期があり、またその時にドストエフスキーとも出会いました。がゆえこの人の作品は僕にとってはエンタテインメントとは全く違う。芸術と言うか哲学と言うかわかりませんが。

ところで最近、耳触りのいい言葉を聞くと、欺瞞では無いのか?と疑ってしまう傾向性があります。希望、とか夢とか、一億総活躍社会とか、そういった未来形の全くどうなるかわから無いものに僕はあまり値打ちを感じない。(実際どうなるか全く予想がつか無い事に執着することのある種の危険性から来る信頼性の希薄さ)むしろ、死 は確実に誰しも、絶対に経験することゆえ、絶対的な存在感と信頼性があり、僕にとっては決して忌み嫌う存在でなく、ごく自然な、何処にでもある、普遍的な出来事と思う。死と言うのは、遠い遠い存在ではなく、むしろ自分の対話の友達のようにも思う。今から自分はどの様に生きていくべきかの答えを見出す知恵を、死と言う友達から助言されているようにも思います。

ドストエフスキーの作品は死とゆう誰しも絶対的一回的に経験する事を考えさせ、感じさせると同時に生きる事の難しさを考えさせてくれる。しかし、同時に僕には、不思議と漲る生命力、生き抜く力をも感じる。物語はどれも暗く、またひつこいくらいの心理描写を読んだあとに、なぜか、気持ちは少し軽いというか、少なくとも落ち込むといったネガティヴな感覚に陥ったことは不思議とない。

白痴のこれからの展開も楽しみです。
丁度一年前、インドのバラナシに行ってきた。このバラナシと言う街は、ヒンドゥー教の聖地であり、またヒマラヤ山脈を原泉とするガンジス川が流れる街で、多くのヒンドゥー教徒が巡礼に、また人生の最期を迎えるために全インドから多くのヒンドゥー教徒が集まると言う、とても重要な聖地です。


街には、牛が行き交い、沢山の人、物乞い、騒音、悪臭、野良犬気の荒い猿、おびただしいゴミが、混然と共存している。
驚いた事と言えば、人間の屍体に出くわすこともそう珍しくない。日本であると、屍体らしきものが川に浮いていたら、恐らく大騒ぎになると思うが、誰もそれについて眉一つも動かすことがない。
ガンジス川のほとりには、ガートと言って、巡礼場所であったり、火葬場などがあり、川べりでマキをくべて火葬する場所がある。その廃をガンジス川に流すことがヒンドゥーにとって最も理想的な死に方となるそうです。

全てが驚きだったけれども、特に印象的な出来事として、犬が共食いをしているのに出くわしました。はじめはショッキングな出来事としてそれを眺めていましたが、かと言ってここでは、誰もそれを見て驚いている人などいない。ごく日常的なことなのでしょう。要は犬はお腹が空いたから、目の前にあるものを食べていりる。きっとただそれだけの事なのでしょう。人間はそういった光景を見た時に、残酷、醜悪、汚い、嫌悪、などの感情をわかす。しかし、犬はそんなことを恐らく考えていないし、またバラナシの人々もそれを廃除する気配がらないところをみると、特別な感情は無いのであろうと感じた。「ただそこにある。と言うこと以外になにも無い。」
と言うことなんでしょうか。

ヒンドゥー教の人々は今世で魂は絶えるので無く、永遠に輪廻すると言う考えを持っている。だからこそカーストが現在も完全に機能している。魂の永遠性を信じている彼らにとって、あらゆる出来事は砂漠の砂の一粒位にしか思わないのかもしれない。

けだし、醜悪、残酷、などのあらゆる感情は、その人の産まれた環境、常識、倫理、教育、宗教に大きく左右される。人間の知恵が産み出した感情と言えるけれども。それも世界一定ではない。ものを正しく、見る、と言うことは、それらを一旦廃除しなければ真実は見えないのでは無いかと思う。

人間は感情が大きく支配している動物ですが、感情こそがあらゆる物事を歪んで見せていると思うけれども、本来の、「そこに存在しているものが。ただ有る」と言うものの見方をできなければ、その物の本質は何も見えない。ただ歪んだ変形したものしか見ていない。と言うことだと思う。バラナシのその光景は、そんな事を教えてくれたのだと思います。