2016年4月15日金曜日

丁度一年前、インドのバラナシに行ってきた。このバラナシと言う街は、ヒンドゥー教の聖地であり、またヒマラヤ山脈を原泉とするガンジス川が流れる街で、多くのヒンドゥー教徒が巡礼に、また人生の最期を迎えるために全インドから多くのヒンドゥー教徒が集まると言う、とても重要な聖地です。


街には、牛が行き交い、沢山の人、物乞い、騒音、悪臭、野良犬気の荒い猿、おびただしいゴミが、混然と共存している。
驚いた事と言えば、人間の屍体に出くわすこともそう珍しくない。日本であると、屍体らしきものが川に浮いていたら、恐らく大騒ぎになると思うが、誰もそれについて眉一つも動かすことがない。
ガンジス川のほとりには、ガートと言って、巡礼場所であったり、火葬場などがあり、川べりでマキをくべて火葬する場所がある。その廃をガンジス川に流すことがヒンドゥーにとって最も理想的な死に方となるそうです。

全てが驚きだったけれども、特に印象的な出来事として、犬が共食いをしているのに出くわしました。はじめはショッキングな出来事としてそれを眺めていましたが、かと言ってここでは、誰もそれを見て驚いている人などいない。ごく日常的なことなのでしょう。要は犬はお腹が空いたから、目の前にあるものを食べていりる。きっとただそれだけの事なのでしょう。人間はそういった光景を見た時に、残酷、醜悪、汚い、嫌悪、などの感情をわかす。しかし、犬はそんなことを恐らく考えていないし、またバラナシの人々もそれを廃除する気配がらないところをみると、特別な感情は無いのであろうと感じた。「ただそこにある。と言うこと以外になにも無い。」
と言うことなんでしょうか。

ヒンドゥー教の人々は今世で魂は絶えるので無く、永遠に輪廻すると言う考えを持っている。だからこそカーストが現在も完全に機能している。魂の永遠性を信じている彼らにとって、あらゆる出来事は砂漠の砂の一粒位にしか思わないのかもしれない。

けだし、醜悪、残酷、などのあらゆる感情は、その人の産まれた環境、常識、倫理、教育、宗教に大きく左右される。人間の知恵が産み出した感情と言えるけれども。それも世界一定ではない。ものを正しく、見る、と言うことは、それらを一旦廃除しなければ真実は見えないのでは無いかと思う。

人間は感情が大きく支配している動物ですが、感情こそがあらゆる物事を歪んで見せていると思うけれども、本来の、「そこに存在しているものが。ただ有る」と言うものの見方をできなければ、その物の本質は何も見えない。ただ歪んだ変形したものしか見ていない。と言うことだと思う。バラナシのその光景は、そんな事を教えてくれたのだと思います。