2017年4月9日日曜日

〝愚者とつるむな〟仏陀の初期仏典の一説。
 
どう言う意味なのか?これも受け取る側の解釈は様々でしょうけれど、

僕が考える愚者とは、死刑囚でも、総理大臣でも、フリーターでも、サラリーマンでも、道端でねている酔っ払いでもない。

では何が愚者だというと、例えば、〝挨拶はしなければいけない〟ということについて、
では何故挨拶をしなくちゃいけないの?とゆう問いに対して 〝そんなん常識やろ〟と言ってしまう事だと思う。

つまり、世間の大多数の意見である常識を、そのまままるで自分のアイデンティティと合同であるかの様に、何も考えるずに 〝常識〟と言う大きな傘に隠れて横暴にふるまう、自分の考えと常識との間に生まれるギャップを何の抵抗もなく、〝常識〟を受け入れる、これが僕にとっての〝愚者〟だと思うのです。
所謂 寄らば大樹の陰、の自動運転、と言う事です。

日本はこの〝常識〟と言う事に関してあまりにも従順であるとおもうのですが、では何故この常識と言う言葉を重要視するのか?

これは色々な人が指摘している事ですが、所謂 徳川300年、の間に、国民をコントロールするために築き上げられた、政治的な意思  だと僕も思うのです。お上に逆らえない様な雰囲気、とでも言いましょうか。
何も考えなくても、お上の言う事を聞いていたら安泰だ!とババくじを引かされている事にも気付かせず、ジワリジワリと武力 権力でもって 治めていった、と言う事ではないかとおもう。

ところで、常識は隣の国の非常識、は身近に沢山存在する。
例えば 蕎麦を食べるのに音を立てて食べるのが日本では常識ですが、西欧人は音を立てるのは行儀が悪い、とされる。

つまり常識は国によって違うと言う事からも 実態はなく また人間の真理でも無い。逆に言うと、地域地域の生活上の都合で作り上げて出来たものといえる。そう考えと常識なぞそんなに大事な事でも、守るものでも無いのでは?と個人的には思う。

冒頭、愚者などと言ってしまいましたが、個人のアイデンティティに気付き、築き上げるのは、日本は歴史的にみても難しい土壌かもしれません。300年かかって築き上げられたものを、明治以降の150年で消えてしまう事などないと思うのです。徳川300年は今も生き続けていると言えるのではないでしょうか?

常識なんて一番信用していない!