2017年4月9日日曜日


キリストの復活とヨーロッパ文化の発展について。

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キリストの復活とヨーロッパ文化の発展について。

キリストは聖書によると十字架にかけられ、いちど息をひきとったのち、再び復活したという事は、キリスト教において最も重要な出来事であり、また信者の人々の心の大きな拠り所であることは周知の通りです。
僕は、キリスト教のことは全くの不勉強でキリスト教についてどうこう語る資格が無い、と言うことを前提に、このキリスト復活とヨーロッパ文化の発展について考えたことを述べます。

そもそも、全ての動物、植物、生きるもの全ては、また宇宙までもが、やがては死に消え失せることは、絶対的宿命であることは、誰しも疑いようの無い真実です。いわゆる自然の法則であるわけですが、いちど息を引き取った人間が再び復活するという事は、神のみが可能とする領域であり、逆に我々は全く不可能の領域となります。この復活は多くのキリスト教信者をとてつもなく勇気づける事であることは、信者で無い僕にも想像がつきます。
もし全ての生き物はいずれ死ぬという事が仮に 自然、と仮定すると、キリストの復活とは、まさに自然、宇宙を凌駕した存在と言う事になります。要は自然と言う普遍的絶対的宿命を乗り越えた、と言う事です。
この事実こそが、西暦が始まって以来ヨーロッパを発展させ、また歴史的にみても、世界のリーダーたらしむる大きな原動力になっているのでは無いだろうかと、考えるようになりました。

みじかな事で言いますと、西洋医学に於いては、基本的には病原体を叩く事によって病気を治す、といった手法、理念が根底にあると思います。病原体自身はなんらかの理由により、自然発生した物と言えますが、それを人間の英知でもって凌駕しようとする行為が西洋医学であるのに対し、東洋的には、何がしかの医療行為によって、免疫力を促す、或いは、血流を促す、みたいな、所謂病原体を叩くという発想ではないように思えます。
あくまで自然に寄り添った発想ではないかと思います。

もう一つ例を挙げると、西欧人は山を登る時、attackするといいます。この言葉からしても、自然に立ち向かう、自然を人間の力、英知によって凌駕する姿勢が感じられます。一方東洋的には山にたいしては、むしろ畏怖の念をもっている。自然に対しても同じ感覚であって、決してそれに対して打ち勝とうという発想はないと思う。

このように西欧の人々は、自然というものを乗り越えて、より良い社会を創造しようとしていますが。その根底にある底力、自信は、キリストの復活、いわば神という存在は、自然をも超越するということを、根底から信じているが故に、自然に対し挑みつづけた結果として現在の医療、科学諸々今の西欧を大きく発展させてきたのだと想像したりします。