2017年10月6日金曜日

苦手な事は宝物。

僕は小学生の頃から本を読むのがとても嫌いだった。その理由の一つに、言語能力が人より劣っている事の他、もう一つ理由がある。

僕の父親は、作家になることを目指していましたが、デビューなどはできず、しかしながら広告代理店でコピーを書くいわばプロの物書きだったのです。

父親は、僕が喋る内容が理解出来ないのか、はたまた文法的に変なのかわかりませんが、何時も僕が何か言うと、「なにゆうてるかわからん」と言われた。
また、父は本を斜め読みが出来るみたいで、僕も本は斜め読み出来ないといけないんだ!と小学生ながら思いました。しかし斜め読みしたところで内容がわかる訳が無い。

そんな事で言語能力に苦手意識を持った僕の国語の成績は他とくらべ何時も悪かった。

例えば、「それを指しているのは、どれにあたりますか?三文字で答えよ」みたいな問題を正確した事がない。

そんな事で僕は長く間日本語コンプレックを持ち続けました。

それから何十年と月日が過ぎ、ちょうど厄年に入ったころから、僕は精神的に患い、先が全く見えない時期が長く続いた時期がありました。ちょうどその時期に、今までコンプレックを抱き続けた読書をはじめました。

その時、どうせなら皆が読まない、精神性の高い本を読みたい、それを読む事でこの苦しみから少しでも逃れる事のヒントを見つけられたら、と思いました。

当時、ドストエフスキー、ショーペンハウワー、ゲーテ、三島由紀夫、初期仏教、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教関連の書籍などを読みあさりました。

僕はまさかドストエフスキーなど一生読まないし理解出来っこないと思っておりましたが、ゆっくり亀の様に読めば、全然難しく無いし、夢中で読みました。

それは何よりも、生きるヒントを死にものぐるいで探していたから読めたのかもしれません。

有難い事に、それ以来、僕にとって本を読む事はとても大事な事となりました。

本を読むのが極端に遅いからこそ、読解力が人より劣っているからこそ、ゆっくり味わって読む事が出来る。

苦手な事が幸いする一つの例かも知れません。

2017年10月2日月曜日

蛾の第六感。

蛾の種類の中に メスが極端に少ない種類があり、その種のオスは、何キロも離れたメスを探し当てる能力があると言う。

大阪で言うと梅田にいるオスの蛾が天下茶屋のメスを探し当てる様なものです。

自然界には他にも、鮭の遡上や 渡り鳥など、産まれ故郷を探し当てるという、また葉っぱや木の模様そっくりな虫などもいる。その様な超ハイテクなナビや変身術を備えた動物は少ないない。

これらは、みな種の保存を目的とし、それを果たすべく身に付いた能力と言えますが、、

それにしてもこれは本当に驚くべき事です。

人間だと、地図やナビや羅針盤無しに正確にその場所に行く事はかなり難しいと思う。

しかし何故、その動物達は正確に探し当てる事が出来るのか?

ヘッセの今読んでいる、デミアンには次の様に述べられている。

「種を保存する、と言う強い意志から産まれた第六感がメスを探し当てるのだ。」と。

つまり、強い意志は、想像もつかない能力を育て上げ、第六感をも使い、やがてはその意志の目的にたどり着く、と言える。

最近、僕は意志によっていかようにも変化していけると信じています。
それは、先に挙げた動物達のそれぞれの素晴らしい能力が、明らかに実証してくれていると言えるからです。

ところで、政治家がよく使う言葉に、夢、希望、と言う言葉もある種同義語とも言えなくもないけれども、なんか耳触りが良すぎてもう一つ信用出来ない。意志、と言うのが一番分かりやすいのでは?と思う。



2017年10月1日日曜日

ヘッセとの出会い。

これは果たして偶然なんだろうか?と思ってしまう出会いは、誰しも経験があると思います。
例えば、あいつどうしてるんだろうなー、と思っていると、その何年も会っていない友人から突然連絡が入った、とか。

最近僕は意志についてよく考える事がありますが、正にそれについてググッと迫る小説に出会いました。

ヘルマンヘッセは、僕は全く読んだ事も無く、特にどういう作家かも知らなかったのですが、自宅で読む本が無くなったので、妻の本を漁っていると、ヘッセの 車輪の下 とデミアン と言う題名の古い本を見つけた。

まず 車輪の下を読みましたが、これがとても馴染みました。これは、ある天才と言われた少年が町の人の期待を背後に、難関とされる神学校に見事二番で合格するのですが、そこでの生活は規律正しい、また画一的なものであった。その様な生活や信仰に疑問を持ち出した主人公ハンスは、詩人の天才ハイルナーと出会い、彼の持っている思想、知識に大きく影響を受ける。反面、異端児で皆から嫌われているハイルナーと微妙な距離を置く。そしてついに神学校を脱走し、期待していた町の人からは精神病とみなされ、孤独の淵へと自ら進む。

と言った内容。ヘッセは異国で時代も違う人なのに、なぜか考えや物の感じ方が解る部分が多く、それだけにのめり込む。本当に良い出会いであったと思う。

いまデミアンを読んでますが、ここには、意志についてのヘッセの考えが書かれているが、自分が考えていた事がそのまま書かれているのには、ビックリしました。


ヘッセに会ってみたいと思ってしまいます。

2017年9月22日金曜日

意思と意志

僕は今まで、自分は神経質な人間だ、とか人に対して恐怖しがちだ、とか色々と勝手に自己分析をしては、自分はそういう人だから こう言う場所には行かないだとか、こう言うタイプの人は苦手 とどんどん行動範囲を狭めてきたと思う。

しかし 今現在の僕は果たして本当に神経質なんだろうか?本当に人嫌いなんだろうか?
と考えると、それは今まで経験してきた過去のデータをとおしておおよそこんな人間だろうと思い込んでいるだけで、実際は神経質だとも無神経だとも言えないのでは?と思う。

人間はその日一瞬一瞬の思いと意志で行動する。例えば、今日は天気が良いから山に登ってみよう!朝眠いけど頑張って仕事行こう。
逆にポーッとしていて、気が付けば夕方になっていた、 また上司の前で緊張して言いたい事が言えなかった、など様々。

そうゆう事の連続で自分はどう言う人だと言うキャラクターが決まって行き、やがては俺は意志が強いだとか、神経質だとか勝手に思い込む。あげくの果てには、例えば緊張するタイプの人だと、上司の前では言いたい事を恐らく言わないだろうな、などと事前に決めつけて、実際にやはり何も言えなかった、と言う風に。

しかしこれは、自分の「俺は気が小さい」と言う思い込みが、何も言えない自分に誘導していると言う事になるのでは?と思う。

人間は一瞬一瞬の意思や意志によって次の行動にでる。仮に自分は神経質だと自己評価している人でも、この瞬間から神経質はやめた!と思えば、一瞬にして人は変われるものだと思うようになってきた。
何故かと言うと、神経質だと言う自己評価は過去の経験から生まれた幻想であり故に、現在の自分に決して当てはまるとは言えない。
逆に言えば、この一瞬の意志判断によって劇的に変化する可能性をもっていると言える。にも関わらず、俺は神経質だからと言う過去の幻想にとらわれ、その一瞬一瞬のチャンスを今まで通りのネガティヴな性質に流れてしまうのは、もったい無い事だと考える様になった。

画家の岡本太郎さんは、「自分は神経質な人間だから、なんて言うのは自惚れだ!そんな事はどうでもよい、一瞬一瞬を爆発させろ!」などと言っていたのをおもいだす。

人間は一瞬にして変化できると僕は信じている。過去の自分に囚われさえしなければ。

過去は、もうどうしようもない 。手にとって実感する事は不可能だし塗り替える事もできない。そんなものに囚われるより、唯一手にとって実感できる今の方が何万倍も価値があるとおもうのです。


その価値のある今、例えば「神経質をやめた!」と思い行動すれば、同じ景色が今までと違って見えるとおもう。大事な事は一瞬一瞬の意思と行動だとおもうのです。

2017年9月8日金曜日

目黒リコーダーオーケストラの委嘱で書かせて頂きました。cathédrale

ピアノソロバージョン。

https://youtu.be/-WoMGfcnovw
僕は元々人前に立つのがとても苦手であった。今も変わりなく、時に緊張のあまり 額に汗が大量に出たり、足がワナワナ震えたり、喉がカラカラになることもままある。

この様な自分を今まで、みっともないな〜、カッコ悪いな〜、と恥ずかしく、また卑しいな、などと嫌悪していました。


先日、テレビをみていたところ、古い木造校舎ばかりを撮る写真家が特集されていた。
ロン毛でなんか内向的で、しかしちょっとオシャレな容姿。

彼は小学生のころ、イジメ、などから不登校になり長年に渡り引きこもる生活をしていた。元々対人恐怖症などもあったので、みんなと溶け込めなかったのでしょう。

その彼が、ある時から木造校舎に魅せられ、父と一緒に全国を飛び回って廃校を撮り続け、やがて古い写真を撮る事が自分の使命、仕事だと確信していく。

番組の中で、現在の彼が、母校にて小学生の前で講義するシーンが映し出されていた。内容は、小学生のころの苦い経験、引きこもり、そして写真を撮る事を生業となった現在までのプロセスと、彼の思いを語る、というもの。

小学生相手とはいえ、今も対人恐怖症などは変わらないのでしょうか、彼は明らかに手がワナワナ震えていた。しかししっかりと自分の考えを述べていた。小学生も真剣に聞き入っていた。

僕はそのワナワナ震えた手を見た時、決してカッコ悪いとか、みっともないとは思わなかった。

むしろ、素敵だな、ちょっとカッコ良い!とさえ思った。恐らく、震える手のカッコ悪さを乗り越え、自分の信念を皆んなに必死で伝えようとする姿に感動したのだと思う。
と同時に 同じ様な自分を肯定出来るきがした。

大事な事は、全て自分の中にある、いくら表現が不細工でも、信念と勇気があれば相手にはチャンと伝わる、と思った。

よーしこれからは、堂々と額に汗をかき、震え、喉をカラカラにさせよう!カッコの悪い自分を全面にさらけ出せば良い、と思った。

どんなに無茶苦茶になっても、自分の信じている筋を、美しいと思う事を、正しいと思う事を相手にぶつければ良いんだ! とその彼に気づかせてもらったきがした。

カッコ悪いって、実はカッコ良いのだ、

カッコ良いって、ちょっとカッコ悪いのかも?とも思った。

2017年8月15日火曜日

川端康成 山の音を読んだ。

三島由紀夫が「芸術として完璧な作品 」と絶賛していたのがきっかけとなった。

この作品は、家の裏山の山の音に自分の死期を予感した老年の男性が 自分の息子の嫁 菊子に淡い恋心を描く、と言うのが主題。

まず驚かされたのは、構成なんですが、どこまで行っても物語の起伏が 限りなく平坦で、劇的なクライマックスなどはほとんど見られない。謂わば淡々と時間が静かに流れていると言って良い。
普段から作曲をする僕にとって、常に構成に関して神経をそそぐけれど、この様な平板な流れはとても恐ろしくて書けない。だってクライマックスが殆どないんだもの。

しかし一方では、錆びつこうとしている主人公、清らかな菊子、戦争により精神が腐りかけている長男を交互にグラデーションする事によって、日本人独特の情念や 悲しみが醸し出されている。
古い畳の匂いがする簡素な部屋に 白いいちりんの百合がいけてある。と言った印象を受ける。

反面、究極のエロチシズとも言えるのではなかろうか。 それを想像させるシーンは一度も現れないが、、、

また、老年の恋、と言う未だ未経験の感情に強い好奇心を持った。